本多忠勝公像

付近住所 三重県桑名市吉之丸


 天文17年(1548)、徳川家の重臣本多忠高の子として三河(愛知県岡崎市)で生まれ、幼名を鍋之助 のち平八郎と称した。
 永禄3年(1560)、13歳で大高の役に初陣以来、大小50余の諸合戦に出陣し、ついに一度も負けることなく、一ヵ所の傷をも負わなかった。
 天正18年(1590)徳川家康公関東入国の時、忠勝公は上総(千葉県)大多喜、10万石を与えられた。
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に従い、戦功により同6年 伊勢桑名10万石に転封された。
 桑名に入部した忠勝公は、木曽三川や伊勢湾の水運を利用して発展してきた港町を、城を中心にした城下町に造り変えるという大規模な都市再開発事業を断行した。これを「慶長の町割」という。桑名で計画的に町づくりが行われた最初である。
 港町、城下町、宿場町という三機能を合わせ持つ桑名の基盤造りは忠勝公の第一の功績である。
 忠勝公は「徳川四天王」の一人と称えられ家康公の信任極めて厚く、有能で剛勇の武将であった。
 慶長14年(1609)致仕し、嗣子忠政に家督を譲り、同15年、63歳で没した。
 西岸院殿長誉良信大居士と号し、桑名浄土寺に葬られている。